カテゴリ:嘉義丸( 33 )

母の命日

d0018704_1630596.jpg5年前の今日、母は亡くなりました。

母上様へ
嘉義丸の報告届きましたか?多分驚いたことでしょう。父上様とゆっくり語り合っていることでしょうか?

今日は母上へちょっとした贈り物です。
亡くなって1年後に生まれたあなたのひ孫 shakiちゃん をを紹介します。6月19日に4歳になりました。
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by bun111ji | 2005-06-30 16:13 | 嘉義丸
戦後60年、嘉義丸沈没62年を経ての報告です。嘉義丸について沈没の状況以外にこんな話があったとはおそらく母は知らずに逝ったと思います。

嘉義丸
6隻の軍団を組んで名瀬北東50キロを航行中米潜水艦ソーリーからの魚雷に命中。船尾から垂直に約8分で沈没。
貨客船嘉義丸は軍の徴用船。一週間前関西を出航、鹿児島を経て奄美大島、沖縄へ向け、軍の物資や一般乗客を乗せ航行していました。乗客の殆どは奄美や沖縄からの出稼ぎの人たちの帰省客だったようです。
乗客は乗組員を含めて431名とも500名とも言われ、死亡者20名行方不明者300数名といわれていますが、乗組員だけでも20数名死亡しているのでこの数も確かではないようです。行方不明者の殆どが死亡したのではないでしょうか。
当時「戦時海運管理令」により船舶の遭難状況は全て極秘扱い、詳しい遭難状況は未だに遺族にも伝えられていないということです。

嘉義丸のうた
数少ない生存者の話を聞き、惨事の一部始終を作詞作曲、うたに表現したのが朝崎辰恕さん。
「戦、いくさの明け暮れに、戦火逃れてふるさとへ、帰り急ぐ親子ずれ、嘉義丸たよりに船のたび」
「親は子を呼び子は親を、救命胴衣をきるまなく、浸水深く沈みゆく、・・・」と13番まで。
このうたも「大きな声で歌うなよ」とのことで聞かれなくなったとのこと。

d0018704_10253696.jpgその後だいぶたって田端義男が歌って全国的にヒットした「十九の春」を聞いた奄美の唄者朝崎郁恵さん(朝崎辰恕さんの娘)は子供の頃聞き覚えのある曲だと思い調べたら嘉義丸のうたが原曲だったことが判明。いつか「嘉義丸のうた」を歌いたいと思っていたところ、生存者の一人(88才)にめぐりあったのを機に現在各地で行われるコンサートで歌ったりCD「おぼくり」の中に加え、反響を呼んでいるそうです。
朝崎郁恵さんはCD「おぼくり」に  《このアルバムを 父 朝崎辰恕、母 ウサダ、妹 洋子・さわえ と 嘉義丸の全ての犠牲者の方々に捧げます。》 と書いておられます。

5月26日嘉義丸が沈んだ日の前後に新聞、週刊誌、TVなどで取り上げられていました。
5月26日・日本経済新聞、産経新聞、 6月12日号・サンデ-毎日、 6月7日・毎日放送(関西地方)、6月10日・ニュース23、その他フジTVでも放送(関東)されたそうです。

戦没した船と海員の資料館
神戸市中央区海岸通に2年前にオープンした資料館だそうです。HPに詳しく載っていました。
大阪商船のOBの方がいらして嘉義丸生存者がおられるとのことで調べてくださいました。
石川県にお一人、82歳でお元気とのこと。弟が電話したら嘉義丸のこと、船長の最後の姿をよく覚えていると言われたそうです。
先日弟が資料館に行って来て報告してくれました。

兄弟皆へ
だいぶ昔の話で不確かな部分もあると思います。気付いたことがあったらコメントしてください。






 
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by bun111ji | 2005-06-25 16:25 | 嘉義丸 | Comments(0)

命日

62年前の今日(昭和18年5月26日)父は南西諸島沖で米軍の魚雷にやられ、船もろとも海の底深く沈められました。当時、大阪商船<嘉義丸>の船長。軍の物資や民間人を6隻の軍団を組んで航行中2隻が魚雷にやられたと聞いております。この時期になると新聞に嘉義丸のことが載るようです。今年は日経新聞に数少ない生存者やその遺族が「嘉義丸のうた」をつくり、東京、大阪などで「嘉義丸のうた」など歌うコンサートを開き今の子供たちに二度と戦争の悲劇に逢うことのないよう祈りをこめて歌い続けたい、との記事を東京の娘から連絡があったと弟。記事のコピーをFAXで知らせてきました。
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by bun111ji | 2005-05-26 21:42 | 嘉義丸 | Comments(0)

バラの花束


by bun111ji